2012年06月22日

感動はどこから生まれるか?

先日、フジ子・ヘミングのコンサートへ行ってきました。
念願だった生演奏が聴けるということで前夜はワクワク・ドキドキで
眠れませんでした。

ピアノの魔術師と呼ばれたフランツ・リストの名曲も数多く演奏され、
最後は私の永遠の課題曲(?)、「ラ・カンパネラ」でしめ、観客総立ち、


スタンディングオベーション!!


真似できないよな~

当たり前か!

と勝手につぶやいている自分がいる。


Liszt


彼女よりも優れた演奏テクニックを持つピアニストは確かに多く
いるのかもしれませんが、なんだろう、この胸を打つ心地よさや感動は…

ミスタッチひとつない演奏でも感動できない場合があるのに、
逆に間違いが多い演奏でもなんだか心打つものがある...
この違いってなんなんだろう?

フジ子・ヘミングの独特の演奏技法に「魂」さえ感じた。
「芸術」というものを改めて考えさせられました。

少なくとも人の心を打つものは「機械的な」ものではないということ。

どんなに技術を磨いても真似できない個性、感性、人間性...
それが芸術的なテクニックとなり、「神業」となる。


型におさめようとする学校教育や、「認知症」とか「要介護度」などで
「その人」を判断しようとしてしまう介護保険の仕組みに
いつしか染められてしまう中で、


その人の本当の姿を見る目を持ちたい。



piano


フジ子・ヘミングが何かの番組で言っていた。

「楽屋からステージへ向かうのは、まるで地獄へ行く時のよう…死にそう。」と。
「舞台には魔物が棲む」と言われますが、巨匠と呼ばれる人がこんな発言をされたことに驚いた。

ピアニストの華麗な技術に感動するのではなく、その裏にその人の苦悩や
何かに対する熱意、思い、さらには人生をかけた闘いがあり、
そういった目に見えないものが観客を魅了していくのかもしれない。




人に感動を与えるサービスを!


その実現への道は果てしない...

介護の世界、半端ない苦悩や、綺麗事では語れない現場の闘いがある。
それは人を相手にする職業というだけではなく、人生の大先輩である
すごい人たちを相手にしているからかもしれない。


普段の現場といえば...

大変なわりに、「当たり前」と思われがち。
問題を解決しても新たな問題が次から次へと沸き起こる。
感動どころの騒ぎじゃない!
「1日、事無きを得る」で精一杯になってしまう。


お客様に感動を与えるとするならば、それはこの世界では「究極」なのかも。


でもふと日常的なところ、普段気づかない小さなところに目をやると、
小さな小さな「感動」があることに気づく。


え~? おーーーー! うわあ~! 何という! wonderful !!!


「気づきの力」と「純粋さ」、そしてそこに目をやる「余裕」があれば、
「感動場面」はおのずと生まれる。
サービスを提供する側が日々そういう心を持って、コツコツとした活動や努力が行われたら
いつしか「大きな感動」を生むのかもしれない。
それはいつしか芸術の極みに達するのかもしれない...

小さなことにめいいっぱい感動する心を持ちたいですね。


介護が必要な高齢者やご家族が抱えている困難やニーズは
深刻である場合が多く、多種多様である。

だからこそ「感動」や「信頼」につながる道は結構開けているのかもしれない。


混在するニーズにいかに柔軟に対応していけるか。
そして、問題解決にどれだけ真摯に向き合い、真剣に取り組めるか。


難しく、ゴールが遠いように感じるけれど、


要は、


感動を見つけ出す力(感性)と日々の努力が、「感動」から「信頼」へと
人の心を掴んでいけるんじゃないのかな?




この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/ikoi_news/7893707